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じゃんがら念仏踊りの発祥と伝承過程について


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江田3地区では、残しておきたい懐かしい写真などを探しています。お心当たりのある方はご連絡下さい。(アカヤシオサロン・江田区長)


雑誌名 東北宗教学・著者 齋藤 りぼん

巻12・ページ121-147・発行年 2016-12-31
出版者 東北大学大学院文学研究科宗教学研究室
出 典 http://hdl.handle.net/10097/00123193 より転載

●以下、「雑誌名 東北宗教学」著者 齋藤 りぼん より、オフライン閲覧のため転載させて戴きました。(江田地区長 丹野)
※注:掲載写真については本著書とは別に当サイトによる独自掲載のものとなります。


はじめに
1. じゃんがら念仏踊りについて
 1-1. じゃんがら念仏踊りとは
 1-2. 民俗芸能におけるじゃんがら念仏踊りの位置づけ
2. じゃんがら念仏踊りの発祥
 2-1. 袋中上人発祥説
 2-2. 祐天上人発祥説
 2-3. 泡斎念仏発祥説
 I.  泡斎念仏発祥説について
 II. 3つの「泡斎念仏」
3. 今日までの伝承過程
 3-1. 近世のじゃんがら念仏踊り
 3-2. 近現代のじゃんがら念仏踊り
 3-3. 現代のじゃんがら念仏踊り
4. おわりに

はじめに

福島県いわき市では、7月中旬から8月末にかけて夏祭りの季節を迎える。市内各地の神社仏閣のみならず、地域や商店街の祭りなど、実にたくさんの祭りがあり、その形態や内容は多彩である。
その中で、毎年孟蘭盆の時期になると、盆行事の一環として新盆の家庭を廻って歩き、この1年間に亡くなった方々の供養を行う「じゃんがら念仏踊り」が行われる。いわき市では単に「じゃんがら」「じゃんがらでぇこ(太鼓)」とも呼んでいる。孟蘭盆が近づく1か月前位になると、市内各地の公民館や学校体育館、地域の神社などでじゃんがら念仏踊りの練習が始まる。夕食をすませた地区の若者が三々五々練習会場に集い、太鼓や鉦、踊りの練習を行うのである。夕涼みをしながらこの練習の音が聞こえるようになると、いわきに暑い夏が来たことを予感させる毎年の風物である。

じゃんがら念仏踊りは平成4年(1992)にいわき市の無形民俗文化財に指定され、市にとって貴重な民俗芸能となっている。また、最近では『超高速!参勤交代リターンズ』のエンデイングでじゃんがら念仏踊りが登場したり、リオデジャネイロ五輪の時、ブラジルでじゃんがら念仏踊りが披露されたりするなど、その知名度は市内にとどまらず世界的にも一層高まりつつある。このじゃんがら念仏踊りは、その年に亡くなった人の霊魂、つまり新仏を供養するための踊りであるが、享楽的・娯楽的な面が見て取れる。そこで、筆者はじゃんがら念仏踊りが行われるようになった経緯に疑問を抱いた。

諸説ある中で、じゃんがら念仏踊りの発祥は、近世だという説が有力である。近世は、寺院法度をはじめとして、寺社の本末関係が厳しく取り締まられるようになった時代であり、寺請制度が確立された時代でもある。そのため、仏教と民衆の生活は密接に結びついていたと考えられている[ヨルン2002:25-57]。
本稿は、まずじゃんがら念仏踊りについて、民俗芸能の系譜からその位置づけを明確にしたい。そしてそれを踏まえ、史料批判を通じ、じゃんがら念仏踊りの発祥の経緯と現在までの伝承過程を明らかにしたい。

1.じゃんがら念仏踊りについて

1-1.じゃんがら念仏踊りとは
じゃんがら念仏踊りとは、いわき市を中心とした念仏踊りであり、風流に属する民俗芸能である。現在はいわき市各地区の青年会や保存会を中心とした100前後の団体が、それぞれの形でじゃんがら念仏踊りを継承している。いわき市の他にも、いわき市北部の双葉地区の一部や茨城県北茨城市大津地区などの地区でも行われている。この踊りは毎年8月13日から15日の孟蘭盆の時期に、新盆の家庭で行われている。特徴としては、鉦や太鼓を鳴らし、独特の掛け声をかけながら男女が輪になったり列になったりして踊ることが挙げられる。また、いわき市遠野地区や茨城県北茨城市大津地区では、鉦や太鼓の他に横笛も用いられている。

じゃんがら念仏踊りの名称の由来に関しては諸説存在するが、夏井によれば、大きく分けて2つの説が存在する[夏井2012:11-13]。まず、1つ日は助数詞説である。これは、鉦の音(ヂャンヂャン)と太鼓の数や演奏回数を数える際に用いる助数詞(がら)が合わさったという説である。2つ目は、1光惚説である。これは、鉦の音(ヂャンヂャン)を長時間間近で聞いていると、「グワラ、グワラ」と頭の中で反響し、錯綜して聞こえることがあることから唱えられた説で、ある種の音楽などで引き起こされる悦惚状態と類似しているとされる。これらの説のいずれが有力であるかは定かではないが、筆者はフィールドワーク調査の経験から、両説とも有ヵであると考えている。

1-2.民俗芸能におけるじゃんがら念仏踊りの位置づけ
まず、念仏踊りとは、念仏を唱えながら太鼓や鉦を打ち鳴らして行う踊りのことを指す。念仏踊りは、厄病送りや虫送り、雨乞いなどといった御霊を鎮める踊り全般を指すことが多い。一般に民俗芸能は神楽系、田遊系、風流系、民謡など様々な系統に分類されるが、念仏踊りは風流系に分類される[岩崎1973:144]。
念仏踊りの発祥は、一遍上人が創始した踊り念仏だとされている。その後、平安時代末期になると、踊り念仏が念仏踊りへと変化していくこととなった。一部の文献では、念仏踊りと踊り念仏が混同されているが、踊り念仏と念仏踊りは通常区別されるべきものである[坂本2015:69]。五来は、念仏踊りと踊り念仏の違いについて「宗教性をつよく保持しているあいだは念仏に力点を置いて『踊念仏』と呼ばれ、これが芸能化したときは踊りに力点を置いて『念仏踊』と呼ばれる」[五来2008:175]と定義している。

踊り念仏が念仏踊りに変わっていく背景には、踊り念仏の風流化があった。宮田は、具体的に「跳躍念仏が素朴に激しく跳び上がる所作の中に鎮魂術を示すのに対し、そこに種々の装飾が加わり、仮装が加わる。遊びの観念が導入される」[宮田2006:41]と説明している。つまり、宗教的要素が強い踊り念仏が娯楽的要素が強い念仏踊りへと変化を遂げ、夏の盆踊りを中心に踊られるようになったと考えられる。江戸時代になると、念仏踊りはブームを迎えるが、明治時代になると、風紀が乱れるということで度々禁令が出された。というのも、当時盆踊りで踊られていた念仏踊りは、娯楽的な面が高じて、男女が一夜を共にするということが頻繁にあったためである。しかし、当時の民衆にとってこうした性的な結びつきは悪霊退散につながると考えられており[宮田2006:146]、宗教的要素も少なからず包含していたことがわかる。

現代の全国各地の念仏踊りには、性的な結びつきを連想させる風俗的要素はほとんど見られないが、娯楽的要素の中にも宗教的要素を含んでいる点は、昔も今も変わらない。じゃんがら念仏踊りも、そうした踊り念仏を元にした念仏踊りの一系譜と考えられる。

2.じゃんがら念仏踊りの発祥

じゃんがら念仏踊りはいつ頃から、また如何なる理由で踊られるようになったのだろうか。
じゃんがら念仏踊りの発祥に関する説は、大きく分けて3つ存在する。本章では、それらを袋中上人発祥説、祐天上人発祥説、泡斎念仏発祥説とし、史料批判を行いながらこれらを比較考察する。

2-1.袋中上人発祥説
袋中上人発祥説は、現在のいわき市常磐西郷町出身で後に檀王法林寺を建立した袋中上人1がじゃんがら念仏踊りを発案したという説である[菊地1973:8-17]。これは、現在3つの説の中では少数派である。
袋中上人は、慶長7年(1602)仏法を学ぶため明に渡航することを決意するが、その当時、豊臣秀吉による朝鮮出兵の影轡で明に渡ることが容易ではなかったため、琉球で様子を見ることにした。結局、明に渡航することはできなかったが、袋中上人は琉球に3年間滞在することになる。そこで、袋中上人は尚寧王の帰依を受けながら民衆に浄土宗の教えや念仏踊りを伝えたとされる。その後、故郷に戻った袋中上人は琉球で伝えた念仏踊りをいわきの地でも広めたという。それが、現在のじゃんがら念仏踊りだとしている。この説の根拠となる史料は、十八世紀初頭に編纂された『琉球国由来記』である(【史料1】)。

1良定(1552-1639):江戸時代前期の浄土宗学僧。袋中とも。陸奥国菊多郡岩岡に生まれ、同国能満寺で出家。『琉球神道記』『五重要釈』など多数の著書を執筆したほか、20余の寺院を建立。近世における浄土宗の発展に大きな功績を残した人物である。([玉山1993:637]参照)

【史料1】『琉球国由来記』
ハ、万暦年間、尚寧王世代、袋中卜云僧(浄土宗、日本人、琉球神道記ノ作者ナリ)渡来シテ、仏経文旬ヲ俗ニヤハラゲテ、始メテ那覇ノ人民二伝フ。是、念仏ノ始ナリ。

【史料1】は、『琉球国由来記』にある袋中上人に関する記述である。ゞヽし一し—•
では、浄土宗の僧である袋中上人が仏教の教えを民衆向けにしたものが、琉球における念仏の始まりであるとされている。これによると、念仏を伝えたという記述はあるものの、念仏踊りを伝えたという記述は見当たらない。ちなみに、現在の沖縄県には先祖供養で念仏や念仏歌を唱えるニンブチャー(念仏者)、チョンダラー(京太郎)と呼ばれる人々が存在する。つまり、彼らが袋中上人の伝えた念仏を普及させていく過程で、念仏踊りは発生したものではないかと考えられる。

したがって、琉球から戻ってきた袋中上人が、いわきの地でじゃんがら念仏踊りを広めたということについては史料的根拠が乏しいと言える。しかし、現代に至っても袋中上人を介してのいわき市と沖縄県の交流は続いている。例えば、平成10年(1998)、袋中上人の三六0回忌法要が袋中上人ゆかりの地である那覇市の袋中寺で行われた際、いわき市のじゃんがら念仏踊りと獅子舞、そしてうるま市のエイサーが奉納された。それから5年後、袋中上人の琉球上陸400年を記念して、いわき市内3か所でエイサーとじゃんがら念仏踊りが奉納された。今もなお続いているこのような交流は、袋中上人発祥説を人々に想起させるには十分である。

2-2.祐天上人発祥説
祐天上人発祥説は、貞享・元禄期に、現在のいわき市四倉町出身で芝増上寺の大僧正であった祐天上人2が発案したという説である[渡辺1965:32;山口1973:65-66;懸田1980:704]。この説を読み解く史料は、大正11年(1922)に記された【史料2】の『石城郡誌』である。

【史料2】『石城郡誌』
①祐天上人は大浦村大字仁井田より出づ、苦学の末江戸芝増上寺住職となり進んで大僧正に昇る上人惟らくは岩城は宗教心に乏しきの故を以て、貞享永禄(元禄)の頃和讃念仏を授く、其念仏に二種ありーは年寄座敷念仏ーは若衆立念仏是なり、座敷念仏とは仏宇の縁日並に葬礼其外仏事の念仏に関することに申す、其時は先づ焼香し経文を読み和讃念仏(六字名号)を唱ひ、鉦太鼓に和し、くり返しくり返し申すなり、次に若衆念仏とは仏宇の縁日或は新盆に申すなり男女混合の和讃念仏を三唱しつ→鉦太鼓に和しくり返しくり返し申すなり此時男女種々の姿を粧ひ踊りをなす、其歌詞は『メーヘーモーホー』にして又滑稽なりこれを南無阿弥陀仏の変化なりといふ。

【史料2】の傍線①では、祐天上人がじゃんがら念仏踊りを発案したことが読み取れる。現在のいわき市四倉町上仁井田には、祐天上人の菩提寺である護念山最勝院浄土寺がある。この寺は、貞享・元禄期当時非常に裕福な寺院であったため、お金を藩中の武士や領主に対して貸していた。しかし、借金をした武士や領主たちはお金を返済することができず、これを領内の民衆に押しつけることとなった。その返済方法は、「最勝院常念仏」と記した旗を馬の背中に立て、浄土寺の僧が念仏を唱えながら、民衆から師月1合と1銭を徴収するというものであった。当時の民衆は、宗教心が乏しかった上に、返済を課されたこともあって、ひどく困窮に陥ったのである。中には、わが子を捨てることを顧みなかった者さえ存在したほどである。

2祐天(1637-1718):江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧。陸奥国岩城郡出身。徳川綱吉、徳川家宣らの帰依を受け、芝増上寺の大僧正となった。受けた布施は全て廃寺の復興にあて、奈良の大仏や鎌倉の大仏の補修等も行った。将軍から庶民に至るまで、生仏として尊敬された人物である。([玉山1993:282;小学館国語辞典編集部絹2012]参照)

そこで、その状況に心を痛めた祐天上人は、当時のいわきの民衆に対して浄土宗の布教、さらには祖先崇拝の大切さを教えるために「南無阿弥陀仏」という名号を「ナーハハーハーモーホホーホ」というユニークな掛け声に換え、鉦や太鼓を用いて踊ったとされている。これにより、祐天上人は「自安我楽」、つまり自ら安じ我を楽しむという境地を開いて、民衆の荒れた心を鎮めたとされている[渡辺1965:32]。

この説は、近冊から現代にかけて広く知れ渡る通説となった。例えば、昭和時代のいわき市の小中学校の学習資料や地方紙にはじゃんがら念仏踊りの発祥は祐天上人によるものだと明記されている[いわき市小・中教研音楽研究部編1980;『いわき民報』1976年8月12日]。つまり、誰もが祐天上人発祥説を信じて疑わなかったのである。しかし、この説にはいくつかの問題点がある。まず1点目は、祐天上人とじゃんがら念仏踊りを結びつける根拠となる史料に乏しいことである。それは、『石城郡誌』内の記述が何を根拠に書かれているのかが不明瞭であることにある。じゃんがら念仏踊りの発祥が祐天上人によるものだとされるようになった背景には、民衆が地元の名僧祐天上人に畏敬の念を抱き、その名を後世に残すべく、じゃんがら念仏踊りと結びつけたのではないかと考えられる。

2点目は、当時のいわきの民衆の信仰である。『石城郡誌』内には、当時のいわきの民衆は宗教心に乏しかったという旨の記述があるが、それに対し当時のいわきには薬王寺や専称寺をはじめとする多くの寺院が存在していたことから、逆に信仰心は厚かったのではないかと推測できる。近惟の徳川幕府の時代背景は「はじめに」でも述べたように、寺社の本末関係が厳しく取り締まられるようになった上に寺請制度が確立された時代である。つまり、仏教と民衆の生活が密接に結びついている時代である。この点を考慮すると、信仰心が乏しいというのには矛盾があると考えられる。

  

2-3.泡斎念仏発祥説
I.泡斎念仏発祥説について
昭和から平成初期にかけて、祐天上人発祥説が広く知れ渡った通説となっていたが、それを覆す形で唱えられたのが泡斎念仏発祥説である([夏井2012]、【史料3】)。

【史料3】『小川江筋由緒書』
翌年明暦二年申七月十四日ハー周忌ナレハ、石塔建立仕リ、年回読経ヲ営ム処二、江下一統、鎌田ヨリ四ツ倉迫十ヶ邑余、此儀ヲ聞及ハレ、当山へ相集リ、俗人ナレハ経文ハ読メスト云テ、念佛ヲ供養スル事、老若男女ノ分ナシ。此時、人々約束シテ、此厚恩ヲ為報、月々二会合シテ、念佛興行ヲ成シテ菩薩卜成ス。当国念佛講ハ是ヨリ初ル。来世迫此興行ハ怠リ勿ク、実二此用水ヲ得ル里ハ万代ノ宝也。

【史料3】は、勧順だいう僧が記述した『小川江筋由緒書』である。文書内には、澤村勘兵衛4の一周忌の様子について記述してある。澤村勘兵衛は、小川江筋という用水路の開拓に貢献した人物であったが、それを妬んだ一部の人々により無実の罪を着せられた。その結果、澤村勘兵衛は明暦元年(1655)に43歳の若さで切腹を果たすこととなった。そして、その翌年の明暦2年(1656)7月14日に一周忌が行われることになったのである。一周忌の様子としては、『小川江筋由緒書」を書いた歓順らが澤村勘兵衛の供養のために石塔を建立し、読経の際に小川江筋の水を利用している人々が理安寺に集まって念仏を唱えたといったものである。
また、この一周忌を機に人々は毎月念仏供養を行うことを決めた。つまり、文中に見られるところの「念仏講」が始まったのである。しかし、この【史料3】内には泡斎念仏の記述が見られない。そこで、根拠の裏付けとなる史料が宝暦期に記された【史料4】の『穂鷹家御内用故実書』である。

3勧順(生没年不明):澤村勘兵衛の一周忌が行われた寺院の住職。([夏井2012]参照)4澤村勝為(1613-1655):江戸時代前期の水利功労者。通称勘兵衛。小川江筋(農業用水)の建設に大きく貢献した人物だが、それを妬んだ一部の人々が澤村に無実の罪を着せたため、澤村は43歳という若さで切腹を果たすこととなった。その1年後である明暦2年(1656)7月14日に、澤村の一周忌が行われた。明治9年(1876)沢村神社に祀られた。([夏井2012;丸井1985:489]参照)

【史料4】『穂鷹家御内用故実書』
沢村彦左衛門、郡奉行にて、類に勝れ候勤め方の由、これは岩城にての事なり、七万石の御所務へ三万石の新切を工夫いたし出し候人なりと云々、②故に風山公、彦左衛門が菩提のためにとて、理安寺と申す寺を御開基遊ばされ候と云々、右理安寺よりほうさい念仏始まる、もっとも理安寺ばかりなり、その唱えに風山殿へ御影向申す、彦左衛門どのへ御影向申す、じゃぐわらじゃぐわらと鉦をたたき立ち、念仏をかまびすしく唱え候は、岩城の名物なり、この故実なり。

【史料4】
は、平藩主だった内藤家5の家老を務めていた穂鷹家に代々伝わる文書であり、その中に、一周忌の様子が記されている(傍線②)。内容としては、「理安寺でほうさい念仏が始まった。そこで人々が『風山殿へ御影向申す、彦左衛門殿へ御影向申す」と唱えながらじゃぐわら、じゃぐわらと鉦を鳴らしてやかましく念仏を唱え、それがいわきの名物である念仏踊りの故実である。」という意味になる。
つまり、文中では理安寺で泡斎念仏が始まったこと、またこの泡斎念仏が現在のじゃんがら念仏踊りの由縁であるということが推察される。ちなみに、文中で澤村勘兵衛ではなく「沢村彦左衛門」という人物が登場するが、これは当時澤村勘兵衛が罪人と見なされ、文書内に名前を記すのはよろしくないと見なされたため、代わりに澤村家の本家の当主であった澤村彦左衛門の名を記したとされている[夏井2012:16]。

5近世以前まで磐城平藩を所領としていた鳥居氏が山形へ転封となると、元和8年(1622)内藤政長が上総国から磐城平藩へ七万石で転封し、楢葉郡・磐城郡・磐崎郡・菊田郡を所領とした。以後、延享4年(1747)に延岡藩に転封するまでの125年間、磐城平藩を治めていた。([夏井2012;いわき市史編さん委員会編1975]参照)

II. 3つの「泡斎念仏」

また、【史料4】の文中にある「ほうさい念仏」は漢字表記にすると「泡斎念仏」となるが、この泡斎念仏に関しても、夏井が3つの説を唱えている[夏井2012:24-73]。
1つ目は慶長期以前に常陸国の高僧である泡斎が弟子たちと踊ったという説である。2つ目はほぽ同時期に存在した狂僧の泡斎が単独で踊ったという説である。3つ目は、寛永期に下総国の給西で踊られていた念仏踊りが泡斎念仏に似ていたことから、泡斎念仏と呼ばれるようになったという説である。一体いずれの説が有力なのであろうか。
これらの説を検証するのに役立つのが、【史料5】の斎藤月客6『武江年表』である。これは、近世の風俗や事件をまとめた年表であり、執箪にあたっては複数の学者が携わっているのが特徴である。その中の「寛永年間記事」において泡斎念仏に関する内容が論じられている。

【史料5】斎藤月本『武江年表』
③寛永の頃、泡斎といふ狂僧、町小路をはしる。わらんべ集りて、気違ひょ、はうさいよとはやせり。今以てかくいひて、気違ひの名日となれり。其の泡斎はやされて踊るかたち、異形にして人の笑ひをかさねしむ。後、葛西の土人、踊念仏とて、江戸大路を徘徊す。其のさま、物に狂ふがごとくにて、彼の泡斎がさまに似たりとて、泡斎念仏ともよびけるよし、『世事談』にいへり。
綺庭云ふ、④『戦事談」、はうさいの説、然るべし。但し、はうさいは寛永以前よりいへる事なり。考へあれども長ければ記しがたし。
無声云ふ、⑤はうさいは慶長以前よりありて、狂僧にあらず。『ほうさい念仏絵詞』に、昔、常陸国に貴き僧一人おはしける。其の名をばほうさい坊とぞ申しける。我が住む寺破損しければ、弟子あまた引きつれ、太鼓かねの拍子をそろへ、踊念仏をくはだて、繁昌の所へ踊り出で、一銭半銭のくわんじんを得て、堂塔伽藍を建立し給ふとかや。されば末代に至って、ほうさい念仏と名付け、太鼓かねをた、きて、面白くおどり云々とあるにて知るべし。

6斎藤月客(1804-1878):江戸末期の文人。江戸神田の草創名主。日常の公務のほかに、祖父の幸雄以来の事業であった「江戸名所図会』を刊行した。他にも、『武江年表』『東都歳事記』などの名著を残した。([西山1985:195;小学館国語辞典編集部編2012]参照)

以上が『武江年表』の「寛永年間記事」の内容である。この中では、斎藤だけでなく、「綺庭」と「無声」という人物も泡斎念仏について言及している。まず、斎藤が、「『世事談』にいへり。」と記したように、『世事談』という著書を引用して意見を述べている。
『世事談』は、享保19年(1734)に菊岡油涼が著した著書であり、『本朝世事談綺』とも言う。斎藤が『世事談』中から引用した文章が傍線③である。傍線③では、寛永期に狂僧の泡斎が町中で踊った念仏踊りが「気違いよ、泡斎よ」と嘲笑いをされたこと、また後に葛西の人々が踊った念仏踊りが、狂僧の泡斎が踊ったものに似ていたことから泡斎念仏と呼ばれるようになったことなどが述べられている。

次に、「綺庭」が言及している傍線④のように「考へあれども長ければ記しがたし。」とあり、ここでは泡斎念仏についての言及がなされていない。ちなみに、箔庭とは近世後期の国学者である喜多村綺庭7のことである。喜多村は、文政13年(1830)に著した『嬉遊笑覧』の中で泡斎念仏の由縁について具体的に論じている(【史料6】)。

【史料6】喜多村箔庭『嬉遊笑覧」
⑥古き『絵巻物』、はうさい念仏のさまを写せる処あり。その文に「扱もはうさい念仏とて、花を作りてかさにさし、太鼓、かねのひやうしをうち、踊りとびまはる姿をみる人おかしく、腹すぢをか、へ、大ぜいこぞりて見侍りける。是わたくしに踊るにあらず。むかし、ひたちの国にたっとき僧一人おはしける。
その名をほうさいとぞ申しける。我すむ寺、はそんいたしければ、弟子あまた引いれ、太鼓、かねのひやうしをそろへ、をどり念仏をくはだて、はんじゃうの処へ踊り出て、一銭半銭の勧進を得て、堂塔がらんを建立し給ふとかや。
されば、今末代に至てほうさい念仏と名付、太鼓、かねをた、き、おもしろくをどりければ、おさあひは申に及ばず、老たるも若きも我さきとこぞり出、これを見、勧進を入ければ、おもひの儘に米銭をまつべ、破れたる堂寺、そこねたる橋までを建立をなし、其所はんじゃうすると申ける」と有て、
其絵、塗笠に花唐草の如き物を付、笠の縁にきぬを垂たり。
服はたちつけを着て、二人は頸に太鼓をかけ、四人は鉦に緒を付て手に持、打鳴らす撥を空へなげあげなどす。一人は枕にて蒲簑を担ひ、ひさくを持り。
⑥’いづれも狂ひ踊るさまにて皆俗形なり。法師にあらず。此時、むかしといひしはいつの程にかあらん。
⑦『そゞろ物語』、女歌舞伎の事をいふ処、「とりわけ猿若出て、色々様々の物まねする。はうさい念仏、猿廻し云々」。かヽれば、はうさいは慶長年中の事欺。又、
⑧『可笑記』(正保元年記)二巻、「むかしさる人云、狂人走れば不狂人もはしるといへる禅話あり。げにもく、江戸城下の人々が、慶庵の、泡斎のと云、狂人共が町々小路をかけ廻り云々」(慶庵のことは九の巻にいふ)。是は、かの狂ひ踊るをもて、発狂したる者に喩へていひし也。
⑨『世事談Jに「葛西の土人、鉦、太鼓に笛をまじへ、踊念仏にて江戸の大路を廻る。是を葛西念仏と云。泡斎といふことは、寛永の頃、泡斎といふ狂人の法師ありて、町小路を走る。童部集りて、気違よ泡斎よ、とはやせり。今もってかくいふ事ありて、気違ひの名目となれり。此泡斎はやされて踊るかたち、異形にして人のわらひをかさねしむ。彼葛西念仏が踊る処一様ならず。
左りへ飛あり。右へはねるあり。頭をうなだるれば、尻をふりて、おのがむきく心々にして、定れる拍子もなく、たゞ物に狂ふがごとし。泡斎坊が踊るにひとし。よって泡斎念仏と呼。誠に気違念仏踊ともいふべき也」といへり。泡斎を寛永の頃といへるは、伝聞の誤なるべし。


7喜多村信節(1783-1856):江戸後期の国学者・考証学者。箔庭・箔居・静斎・静舎などと号した。江戸を中心とした、民間の風俗や伝承を記録考証した。『嬉遊笑覧』『瓦礫雑考』『武江年表補正略』などを著した。([村井1984:138;小学館国語辞典編集部編2012]参照)

傍線⑥では、松羅館所蔵の『絵巻物』に描かれた泡斎念仏の詞書の引用が記されている。ここには、常陸国の高僧である泡斎が寺院再建のために弟子たちをたくさん引き連れて踊ったことや、それにより集まった浄財で町が繁栄していることも併せて述べられている。また、傍線⑥’は喜多村が記した『絵巻物」の絵についての解説であり、ここで泡斎念仏の踊り手は皆狂ったように踊っていることが記されている。つまり、『絵巻物』の絵に描かれているのは葛西の人々が踊った念仏踊りと言える。

傍線⑦では、『そゞろ物語』の引用部を示している。『そゞろ物語』は、寛永18年(1641)に三浦浄心が著した著書であり、これは慶長19年(1614)に出版された三浦浄心『慶長見聞集』を基に再稿されたものである。その中で、泡斎念仏に関する記述がなされている。引用部の内容としては、女歌舞伎の見憔物である猿若が泡斎念仏の真似をし、面白おかしく踊ってみせたといったものである。また、『そゞろ物語」が『慶長見聞集」を元にしたことを踏まえた上で、泡斎念仏は慶長期に踊られたものだと喜多村は考察している。

傍線⑧では、『可笑記』の引用部を示している。『可笑記』は、寛永9年(1642)に斎藤親盛が著した著書で、5巻構成となっている。引用部では、江戸城下で多くの人々が「慶庵だ」「泡斎だ」と口走りながら、狂ったように駆け回っている様子が記されている。つまり、ここで記されているのは葛西の人々による泡斎念仏であると推察できる。

傍線⑨では、前述した『世事談』の引用部とそれに対する喜多村の解釈を示している。ただし、『武江年表』に記してある引用とは多少異なっている。これは、『武江年表」で記した引用は、筆者である斎藤親盛が重要な部分のみを整理・引用したものであり、喜多村の引用の方が正確である。引用部の内容は、前述のものと同様、狂僧の泡斎が町中で踊った念仏踊りが気違いと嘲笑いをされたことや、後に給西の人々が踊った念仏踊りが、狂僧の泡斎が踊ったものに似ていたことから泡斎念仏と呼ばれるようになったことなどが述べられている。
しかし、これに対し喜多村は「泡斎を寛永の頃といへるは、伝聞の誤なるべし。」としている。これは、「寛永」というのは『惟事談』の著者である菊岡が聞き間違いをしたのだろうと推測していることを示している。つまり、狂僧の泡斎が念仏踊りを踊った時期が慶長期以前であることが読み取れるのである。これらを総括して、喜多村は『冊事談」内の狂僧の泡斎に関する説は正しいと考察している。

最後に「無声」が『武江年表』で言及した傍線⑤についてである。無声は、江戸文化史研究者の朝倉無声8のことを指す。朝倉は、『ほうさい念仏絵詞』より、高僧の泡斎が寺院再建のために弟子たちをたくさん引き連れて踊ったことを読み取り、またそれが後の時代になっても「泡斎念仏」という名で面白おかしく踊られたと述べている。つまり、ここで述べられているのは、高僧の泡斎が踊った念仏と葛西の人々が踊った泡斎念仏と言える。
泡斎念仏についての3つの説を総括すると次のようになる。
(1)慶長期以前に高僧の泡斎が寺院再建のために弟子たちと踊ったもの、
(2)(1)とほぽ同時期に狂僧の泡斎が単独で踊ったもの、
(3)寛永期に葛西で踊られた念仏踊りが泡斎念仏に似ていたことから泡斎念仏と呼ばれるようになったもの、
の3つである。泡斎念仏発祥説を唱えた夏井は、澤村の一周忌が行われた時期を考えた上で、一周忌で踊られたのは(3)の泡斎念仏であるとした。また、葛西の人々が踊っていた泡斎念仏に関しては、「考えにくいことや説明のつかない現象が起きるのが現実」[夏井2012:68-69]とし、(1)、(2)のいずれも該当するであろうとした。

筆者はまず、澤村の一周忌で踊られた泡斎念仏は(3)の泡斎念仏であると考える。寛永期に葛西の人々によって踊られた泡斎念仏は、後の時代になっても踊られていたことが史料から読み取れるため、澤村の一周忌の時期を考えると、これが当時のいわきに伝播したと考えるのが一番自然であろう。傍線⑥’の最後には「皆俗形なり。法師にあらず。」という記述があり、踊っていたのは僧の泡斎ではなく、葛西の人々であることがわかる。また、葛西の人々が踊っていた泡斎念仏は、(2)の狂僧の泡斎が踊ったものだと筆者は推察している。これは、現在のじゃんがら念仏踊りの享楽的・娯楽的性格から考えて、狂僧の泡斎が踊っていた泡斎念仏が、ある種の娯楽的要素を含んでいるように史料から散見され、現在のじゃんがら念仏踊りとの共通性を窺わせるからである。加えて、朝倉が『武江年表」内で取り上げた(1)の高僧の泡斎が踊った泡斎念仏の形態は、狂僧の泡斎の踊った泡斎念仏とは対照的に、淡々と踊られたものだと読み取れる。

泡斎念仏の起源を探るのは難しいが、以上のことから薯西の人々が踊っていたのは、(2)の狂僧の泡斎が踊っていたものの可能性があると考えられる。本節では、じゃんがら念仏踊りの発祥に関する3つの説、更に泡斎念仏発祥に関する3つの説を俯轍し、根拠となる史料の裏付けを考察した。じゃんがら念仏踊りの発祥については、現在もなお袋中上人発祥説や祐天上人発祥説が流布されているが、史料的な根拠より泡斎念仏発祥説が最有力であると言える。

8朝倉無声(1877-1927):江戸文化史研究者。『見世物研究』を著した。([夏井2012]参照)

     

3.今日までの伝承過程

3-1.近世のじゃんがら念仏踊り
じゃんがら念仏踊りの発祥に関しては、明暦2年(1656)に澤村勘兵衛の一周忌で踊られた泡斎念仏を発祥とする見方を有力としたが、この当時の踊りの様子としては、喜多村箔庭が著した『嬉遊笑覧』内の「塗笠に花唐草の如き物を付、笠の縁にきぬを垂たり。」(前節【史料6】参照)という記述から読み取れるように、非常に美麗な様子であったと推測できる。そのような様子であったため、一周忌の15年後である寛文11年(1671)に当時の磐城平藩からある通達が出ることとなる(【史料7】)。

【史料7】七月九日令達覚
ー、ふき花火之儀其以前之通可仕候たま火流星からくり鼠火ハ可為無用事
ー、⑩念仏おとり百度参不苦但大勢を催し美麗尽候儀可為無用口腕口かたく可致停止之事
ー、神事祭礼之場相撲不苦但侍分扶持人ハ可致無用於所々勧進相撲辻相撲可為停止事
  寛文十一亥年七月九日旧記

【史料7】
では、磐城平藩からの通達が3点述べられている。ここで取り上げられている通達は、(1)ふき花火を行ってもいいが、打ち上げ花火やねずみ花火などは行ってはいけない、(2)念仏踊りや百度参りは行ってもよいが、大勢かつ美麗に行ってはいけない、(3)神事や祭礼として相撲を行うのはよいが、藩の武士が相撲を取ること、さらに勧進相撲や辻相撲は行ってはいけない、といった内容になる。その中で、(2)の傍線⑩がじゃんがら念仏踊りに関する内容となる。

まず、傍線部は「念仏踊り、百度参り苦しからず。但し、大勢を催し、美麗を尽くし候の儀、無用と為すべし。」となる。内容の大意は、「念仏踊りや百度参りをするのはよいが、それを大勢で派手に行ってはならない」である。つまり、念仏踊りや百度参りをするときは、質素に行うようにという通達なのである。じゃんがら念仏踊りは、それまで笠に装飾を施すなど華美なものであったが、通達が出されて以降は、衣装を含めて質素なものとなった。

3-2.近現代のじゃんがら念仏踊り
近代になると、じゃんがら念仏踊りの様相は徐々に変化していく。明治時代にじゃんがら念仏踊りの研究を行った大須賀箔軒は、当時のじゃんがら念仏踊りについて詳細に論じている(【史料8】)。

【史料8】大須賀箔軒『磐城誌料歳時民俗記』
⑪盆中村里ヨリ鉦太鼓ニテ老若男女打交リ、十四、五ツレテ城下二来リ、神社、佛寺ヲ廻リテ念佛躍スル。早家新盆ノ家ノ前ニテ躍ル。又、呼入テ、念佛サスル家モアリ。早々ヲ廻リ、夜深テ村里へ帰ル。若輩ノ男子ハ鉦太鼓打嗚シ、十王堂十ケ所ヲ巡ル。之ヲ十十王申ストイフ。枕友。
按二、盆中、各國トモニ舞踏アリ。其曲、其状、各異同アリ。我郷ノ念佛躍、名ハ松ヶ崎題目おどり、糸Lノ念佛おどり卜同ジナレドモ賓ハ一種の踏舞ナリ。狸諺二、「岩城の名物、ぢやんがら念佛、菜大根、背中二灸黙、てんのくぼ」トイフ。郷人ハ皆了知スル事ナレドモ、名物卜称スルハ岩城二限リシー奇俗ナレバ、此二其概暑ヲ記セン。
ぢやんがら念佛トハ即念佛躍ニテ、男女環列、鉦ヲ敲キ、鼓ヲ撃ツ。
鼓者両、三人、中央ニアリ。白布頭ヲ約シ、袖ヲ括ル。之ヲ白鉢巻、白手緬トイフ。鼓ヲ腹下二着ケ、頭ヲ傾ケ、腰ヲ屈メ、撥ヲ舞シ、曲撃ス。鉦者数名、打粧鼓者二同ジク、鉦架ヲ左肩ニシ、丁字木ヲ以テ摩敲ス。
鼓ノ数ヲ幾からトィヒ、鉦ヲ跛クヲきるトイフ。踏舞スル者、之二雑リ、鼓者ヲ環リ、鱗次輪行ス。
鉦鼓二緩急アリ。其急ナルヤ、走馬燈ヲ観ル如ク、張三李四、手ヲ振テ走ル。其緩ナルヤ、一斉二唱ヘテ日ク、なアーはァーはアーなァーはァーはァーめェーヘェーヘェーめェーヘェーヘェー。
媚舞巧踏、手ヲ拍テ節ヲ為ス。所謂じんくおどり二類似シテ非ナルモノナリ。
其中、⑫男ニシテ女粧スル者アリ。女ニシテ男粧スル者アリ。或ハ裸体ニシテ噴鼻揮ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ積鼻二結ビ、後者モ亦端ヲ尾垂スルアリ。或ハ菰筵ヲ鎧トシ、蓮葉ヲ兜トシ、緋、椙木等ヲ以テ大小刀トシ、仮面ヲ蒙リ、武者二扮スル者アリ。務テ新ヲ競ヒ、笑ヲ釣ル。其醜態、目スルニ忍ビザルモノアリ。
⑬此ぢやんがら念佛ハ、獨リ孟蘭盆ノ節ノミナラズ、各神社佛閣ノ宵祭リニモ躍ル。或ハ開帳、入佛供養、大般若會等ニモ躍ル。領主ノ法事執行ノ時モ其菩提寺二来リ、堂前ニテ躍ル。嘗座二酒肴ヲ賜フ。但、盆中卜宵祭ノ外ハ、男女粧ヲ異ニスル如キ醜態ハナカリシ。
⑭縣治以来、其弊害アルヲ察シ、禁ゼラレタリ。
⑮今ヤ梢々奮二復スル模様ナリトゾ。


【史料8】は、『磐城誌料歳時民俗記』内の記述である。明治25年(1892)に著された『磐城誌料歳時民俗記』は、明治時代当時のいわきの民俗や年中行事について述べられた著書であり、その中の「盆中」という項目にじゃんがら念仏踊りに関する記述がある。傍線⑪を見ると、盆の時期に寺社や新盆の家庭、さらにじゃんがら念仏踊りを依頼した新盆以外の家庭で、じゃんがら念仏踊りが行われていたことが読み取れる。また、踊り手は現在のように青年会ではなく、老若男女問わずに踊られていたようである。さらに傍線⑬を見ると、じゃんがら念仏踊りは盆の時期のみならず、縁日や大般若会、法事などの際にも踊られていたことが読み取れる。つまり、盆の時期には新盆の家庭を中心に行われ、それ以外にも縁日や年忌法要でじゃんがら念仏踊りが行われていたと言える。
また、傍線⑫では当時のじゃんがら念仏踊りの特徴が述べられている。傍線⑫を見ると、当時のじゃんがら念仏踊りでは、男装や女装をする者、仮面をかぶる者などが存在したことが読み取れる。前節の【史料7】ではじゃんがら念仏踊りを大勢で美麗に行ってはいけないという通達が磐城平藩から出されたが、明治時代になると非常に派手に行われていたのである。そのため、この時点で磐城平藩から出された通達の効力が薄れてきたことが推測できる。しかし、明治維新による文明開化の世であった当時、このような行いは問題のある行動と見なされるようになり、明治6年(1873)にじゃんがら念仏踊りの禁止令が発せられることになる(【史料9】、傍線⑭)。

【史料9】『旧磐前県史禁令(明治五・六年)
磐城国ノ風俗、旧来念仏躍卜相唱へ、夏秋ノ際、仏名ヲ称へ、太鼓ヲ打、男女打群レ、夜ヲ侵シテ遊行シ、中ニハ如何ノ醜態有之哉ノ由、文明ノ今B有間敷、弊習二付キ、管内一般、本年ヨリ、右念仏躍禁心申付候条、少年児女二至ル迄、兼テ相達置可事。

【史料9】は、・じゃんがら念仏踊りに対する禁令である。前項の【史料7】との大きな違いは、【史料7】は大勢かつ美麗に踊ることを禁じたのに対し、【史料9】はじゃんがら念仏踊りを踊ること自体を禁じた点である。つまり、じゃんがら念仏踊りの全面的な禁止と言える。
【史料9】の大意としては、「いわきには、古くから念仏踊りと称し、夏や秋に、仏の名を唱え、太鼓を打ち、男女が群れて夜通し遊ぶ風習がある。中には醜態をさらす者もおり、近代的な文明の今日においてあってはならない。これは良くない習慣であり、本年から、念仏踊りを禁止する。子どもたちにも、よく言っておくように。」となる。

つまり、風紀の乱れによってじゃんがら念仏踊りが禁止されたのである。しかし、じゃんがら念仏踊りが全面禁止されたのは、単に風紀の乱れだけではなく、明治維新の時期に発令された法令とも関係しているのではないかと筆者は考えた。例えば、明治元年(1868)に発布された神仏分離令による廃仏毀釈がそれにあたる。明治政府は、神道国教化のために神社と寺院を分離し、神社で務めていた僧侶に還俗を命じるなどの神仏分離政策を行った。加えて、当時の神祇官の主流の役人が廃仏主義者だったこともあり、各地で廃仏毀釈運動が急速に進むこととなる。それにより、各地に多大な影響を及ほすこととなったのである。

ちなみに、現在のいわき市南部や湯本では、地元の青年会はじゃんがら念仏踊りを踊らず、代わりに他地区の青年会がわざわざやって来て、新盆の家庭でじゃんがら念仏踊りを行っている。これは、廃仏毀釈によって廃寺が積極的に進められ、神葬祭を強制されたという名残が残っているためである[柏木2009:31-46]。そのため、じゃんがら念仏踊りの全面禁止もこの影響を少なからず受けているのではないかと考えた。

しかし、じゃんがら念仏踊りが全面禁止されてから約20年後には、じゃんがら念仏踊りが徐々に復活してくる。傍線⑮の文章がそれにあたるが、『磐城誌料歳時民俗記』が著されたのが明治25年であることを考慮すると、禁令が発布されてから約20年後には、じゃんがら念仏踊りが徐々に復活してきたと読み取れる。これに関し、柏木亨介は「廃仏毀釈で神葬祭が広まった歴史的背景を抱えながらも、また芸態が時代によって変化しながらも、じゃんがらはなおも求められ続けている」[柏木2009:44]ものだとした。

「芸態が時代によって変化」というのは、復活後のじゃんがら念仏踊りでは、若い男女が踊り歩く様子は見られなくなったことに加え、踊り手が男子のみとなり、老若男女問わず踊るのは寺院でのみという形になったことを示している。そのため、禁令が発せられながらもじゃんがら念仏踊りが復活した背景としては、たとえ形態が変化しても、じゃんがら念仏踊りがいわきの民衆にとってなくてはならないものであったためだと推測できる。大正時代になると、じゃんがら念仏踊りの形態はまた少しずつ変化する。大正時代当時のじゃんがら念仏踊りの様子を示したのが、【史料10】、【史料11】である。

【史料10】高木誠一『石城北神谷誌』
●念仏講
これは爺婆の倶築部の様なもので、六十歳頃になつて隠居して、格別、家に用のない年寄など、酒一舛位を持参して、この仲間に入れて貰ひ、侮月二十四日の月念佛、さては盆、彼岸、虫供養、馬頭観音、薬師、其他、臨時に雷神、雨乞、テントウ念佛など、年に幾回となく集まつて念佛を申す。サシは五銭位、ニガシはトウマイで、念佛の後で酒を呑み、物を食ひて興じるのである。
⑯年回に相常つた佛のある家ではイレメイと云ひ、酒三舛、乃至、五舛位、手拭などをあげて念佛回向して貰ひ、又、立念佛と云つて、あげた手拭をかぶつてジャンガラ念佛を踊つて貰ふを常とす。
又、不幸のある家では、招聘して牡丹餅の御馳走をなし、佛マブリして貰ひ、埋葬の時は棺の後について、鐘太鼓でジャンポンジャンポンと野辺送りをする。之を送り念佛と云ふ。

【史料11】高木誠一『石城北神谷誌』
●ジャンガラ念佛
⑰磐城の盆踊はジャンガラ念佛が弟ーである。この念佛は若衆組でも踊るので、佛宇の縁日、又は新盆の家を廻つて踊るのである。⑱先づ、この踊の始めはOO形になり、圃形の中央には頸から緒をたれた直径一尺五寸程の長形の太鼓をぶらさげ、先端に白い毛の附いた七寸程の撥を両手に持ち、鉢巻、欅がけの太鼓打が二人、乃至、三人入る。この太鼓打が太鼓を打始めると、其太鼓に和して、OO形の者は頬冠をして、木造の---,形に釣るした伏鐘をチャンキチャンキと打ちながら両足を共に振つたり、前後に振つたりしてOO形に飛び廻る。これをカネキリと云ふ。鐘と太鼓とで踊る踊りがすむと、太鼓打の者だけが圃内に残つて太鼓をた、きますと、今度は女も交つて歌を唄つて、手踊をするのである。

【史料10】、【史料11】は、高木誠ーが著した『石城北神谷誌」である。これは、大正15年(1926)に著されたもので、大正時代当時のいわきの民俗について記載されている。

まず、【史料10】は、『石城北神谷誌」内の念仏講に関する記述である。傍線⑯を見ると、年回、つまり一周忌や三回忌などの年忌法要において、年寄の集まりである念仏講がじゃんがら念仏踊りを踊っていたことが読み取れる。また、この記述は泡斎念仏発祥説で取り上げた【史料3】の念仏講についての言及に深く関係しているものである。
次に、【史料11】は、『石城北神谷誌』内のじゃんがら念仏踊りに関する記述である。傍線⑰を見ると、現在の青年会にあたる若衆組がじゃんがら念仏踊りを盆の時期に新盆の家庭で踊るほか、縁日でも踊っていたことが読み取れる。
つまり、【史料10】と【史料11】を総括すると、念仏講は年忌法要でじゃんがら念仏踊りを踊り、若衆組は新盆の家庭や縁日でじゃんがら念仏踊りを踊っていたようである。明治時代にもまた新盆の家庭や縁日、さらに年忌法要でじゃんがら念仏踊りが踊られていたが、この時は踊り手の区別がなく、いずれの場面でも老若男女問わずじゃんがら念仏踊りが行われていた。この点が明治時代と大正時代における最大の違いなのである。

また、大正時代に若衆組が踊っていたじゃんがら念仏踊りの特徴を示しているのが傍線⑱である。傍線⑱を見ると、はじめに円形になって踊り(円舞)、その後に手踊りを行うという流れが読み取れる。現在、青年会や保存会によって踊られているじゃんがら念仏踊りは、はじめに手踊りを行ってから円舞を行うという流れだが、円舞や手踊りを大正時代から行っていたことや、若衆組が新盆の家庭でじゃんがら念仏踊りを踊っていたことを考慮すると、現在のじゃんがら念仏踊りは、大正時代の若衆組が踊っていたじゃんがら念仏踊りと同様のものであろうと推測できる。つまり、現在のじゃんがら念仏踊りの形態は、大正時代頃に成立したものではないかと鍮者は考えた。

その後の昭和時代、殊に戦後になると、踊り手の主体は青年会となり、新盆の家庭でじゃんがら念仏踊りを踊ることが顕著となってくる。そして、それと同じくらい盛んにおこなわれていたのが「じゃんがらコンクール」と呼ばれる大会である。じゃんがらコンクールには、終戦直後10数団体が参加していたが、昭和30年代から参加団体数が減り、37年にはコンクールをやめざるを得なくなった。なぜなら、地域的差異があるじゃんがら念仏踊りを、その差異や個性を無視して順位付けし、青年会から批判を受けたためである。その後、昭和46年(1971)にじゃんがらコンクールの後釜となるいわき市青年じゃんがら大会ができたが、かつてのように順位付けを行わず、それぞれの個性を見せる場となり、現在も行われて続けている。

3-3.現代のじゃんがら念仏踊り
現代におけるじゃんがら念仏踊りは、およそ100にも及ぶ青年会や保存会によって伝承され続けている。その踊る場としては、新盆の家庭で踊られるのが主流となっているほか、前節で述べたいわき市青年じゃんがら大会などでも行われている。この点を見ても、じゃんがら念仏踊りは、供養としての側面と芸能としての側面を併せ持っていると推察できる。つまり、風流としてのじゃんがら念仏踊りの性格がよく現れているのである。

しかし現代においては、伝承にあたっての後継者不足が課題として挙げられている。これは、日本の少子高齢社会への移行、地方の過疎化、明治時代の名残で踊り手に女性がほとんど参加していないことなどが要因となっている。かつてじゃんがら念仏踊りの踊り手は男性のみであるのが主流であったが、後継者不足を解消すべく、女性が踊り手として参加することを認めたりするなどしているのが現状である。加えて、東日本大震災後の影響で被災した団体も存在することから、後継者問題は喫緊の課題となっている。

  

おわりに
本稿は、じゃんがら念仏踊りの発祥の経緯、今日まで伝承されてきた過程を、史料批判を中心として、主に歴史学的観点から考察してきたものである。本稿では、まず、民俗芸能におけるじゃんがら念仏踊りの位置づけを明確にした。これは、筆者の間題意識と深く関係しているのだが、死者供養のために踊るじゃんがら念仏踊りが、どこか享楽的・娯楽的な一面を持っているように見られるが、この様子こそ、風流としてのじゃんがら念仏踊りの性質そのものであると言える。

次に、じゃんがら念仏踊りの発祥と今日まで伝承されてきた過程を考察した。じゃんがら念仏踊りの発祥は、時代考証や史料批判により、澤村勘兵衛の一周忌で踊られた泡斎念仏が発祥であることが明らかになった。そこから約360年間、全面禁止になった時期があってもなお、それを乗り越えてじゃんがら念仏踊りは今日まで伝承され続けている。しかし、その反面で現代におけるじゃんがら念仏踊りは、東日本大震災の影響もあり、後継者不足になりつつある。今後、各団体はこの問題にいかに対処するかが課題となっている。

最後に、本稿の執筆にあたり、筆者自らが提起した問題が解明した一方で、新たな課題も浮かび上がった。それは、東日本大震災によってじゃんがら念仏踊りの伝承や保存がいかなる影響を受けたかについて、いわきの民衆にとって生活の一部とも言えるじゃんがら念仏踊りに対する熱い思いや、なくてはならないものと考えている人々の実相をフィールドワーク調査などの民俗学的手法からアプローチすることである。この点は、筆者自身のフィールドワーク調壺の経験を通して、今後解明していきたいと考えている。


《引用・参考文献》
•1922『石城郡誌』石城郡役所
•1975『内藤候平藩史料Jいわき地方史研究会
•いわき市史編さん委員会編1975『いわき市史第2巻近世』いわき市
•いわき市史編さん委員会編1972『いわき市史第7巻民俗』いわき市
•伊波普猷、東恩納寛惇、横山重編1962『琉球史料叢書』1、2井上書房
•いわき市小・中教研音楽研究部編1980『いわきの民謡」新研社
•江川温、中村生雄編2002『死の文化誌一心性・習俗・社会一』昭和堂
•大須賀箔軒著、夏井芳徳翻刻2003『磐城誌料歳時民俗記』歴史春秋出版株式会社
•太田史人2003「和田さんのじゃんがら一じゃんがらコンクールとその影響について一」『磐城民俗』33pp.9-19磐城民俗研究会
•懸田弘訓1980「念仏踊」福島民友新聞社福島県民百科事業本部編『福島県民百科」p.704福島民友新聞社
•柏木亨介2009「悲しみの解消としての民俗学一いわき市のじゃんがら念仏踊りを通して一」『民俗学論叢J24pp.31-46相模民俗学会
•川村清2010「明治初期の廃仏毀釈の諸相」『東京理科大学紀要(教養編)』42pp.351-364東京理科大学教養科
•菊地照雄1973「いわき地方に於けるじゃんがら念仏について」『四倉史学会会報』11pp.8-17四倉史学館
•五来重2008『民間芸能史五来重著作集第7巻』法蔵館
•坂本要2015「踊り念仏の種々相(1)ー空也及び空也系聖について一」『筑波学院大学紀要』10pp.69-79筑波学院大学
•島尻勝太郎1980『近世沖縄の社会と宗教』三一書房
•下川耽史2011『盆踊り一乱交の民俗学』作品社
•小学館国語辞典編集部編2012『大辞泉第二版』小学館
•高木誠一著、夏井芳徳翻刻2007『石城北神谷誌』雄峰舎・玉山成元1993「祐天」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』13p.282吉川弘文館
•至山成元1993「良定」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』13p.637吉川弘文館
•夏井芳徳2012『ぢゃんがらの国』歴史春秋出版株式会社
•西山松之助1985「斎藤月客」国史大辞典絹集委員会編『国史大辞典』6p.195吉川弘文館
•福島県1964『福島県史第23巻民俗1』福島県
•丸井佳寿子1985「澤村勝為」国史大辞典絹集委員会編『国史大辞典』6p.489吉川弘文館
•宮田登2006『暮らしと年中行事』吉川弘文館
•村井益男1984「喜多村信節」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』4p.138吉川弘文館
•山口弥一郎1973『山口弥一郎選集第7巻』世界文庫
•山口弥一郎1980『山口弥一郎選集第12巻』世界文庫
•山城宗朝2007「袋中上人とエイサー」『沖縄学』10pp.91-104沖縄学研究所
•渡辺義章1965「石城じゃんがら念仏」『いわき地方史研究』創刊号pp.27-33いわき地方史研究会

く新聞>
•『いわき民報』1962年8月138夕刊
•『いわき民報』1976年8月12日夕刊
•『いわき民報』1980年8月12日夕刊


The origin and process of tradition of
Jangara Nenbutsu-odori
Ribon Saitou

In Iwaki City, Jangara Nenbutsu-odori is performed in every part of the city when it becomes (盆)festival. It is the most famous folk arts in the city. So, I was interested in why it began to perform. I will clarify the origin and processes of tradition of Jangara Nenbutsu-odori, and then consider the meaning that Jangara Nenbutsu-odori has been handed down since then.

First, I clarified what is Nenbutsu-odorif rom relationship between folklore and folkart.Jangara Nenbutsu-odori is performed to mourn the dead, but it looks amusing.This is one of its feature.

Second, I considered history of Jangara Nenbutsuodori. I understood that origin of it is Housai Nenbutsu performed in Kanbee Sawamura's first anniversary. Then for 360 years, even if it was banned for a while, it continues to be handed down. For the people of Iwaki City, it is a very important festival and it is part of the irlife.

I found a new issue through my research. That is whether Jangara Nenbutsu odori did not stop because of the Great East Japan Earthquake. I will think about that issue through fieldwork.



【参考記事・関連リンク】
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●磐城蘭土紀行「背戸峨廊(せどがろ)のいわれ」タカじい
●背戸峨廊の名付け親・詩人草野心平の故郷「草野心平記念文学館
●いわきの今むがし「行楽客を乗せ、江田信号所に停車」国府田英二氏
●I love switchback by Hideki Egami「江田信号所
●私の撮った鉄道写真「江田信号所(現:江田駅 磐越東線)」堀越通生
●SL蒸気機関車写真展「阿武隈高地を行く磐越東線」 田辺幸男のHP
●なめくじ会「D60が夏井川渓谷や小川郷の田園を走っていました
●鉄路のおもい 鉄道写真展示場「正月の磐越東線」山梨幸夫
●しゅうちゃんのお出かけ日記「No237 磐越東線
●2020.12.20「夏井川渓谷錦展望台(ドローン空撮)」SKY IWAKI
●2016.12.31 じゃんがら念仏踊りの発祥と伝承過程について 齋藤 りぼん
●2017.12.18 Npo法人地域福祉ネットワークいわき 意見交換会
●2018.3.26 山内クリニック様のブログ紹介
●2020.6.3 古扇亭唐変木(古川 隆)
●studio4310fukui「夏の日の江田信号所
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フラシティいわき

「アカヤシオの里」福島県いわき市小川町上小川地区 江田・椚平・牛小川 3集落のフォトアルバム制作室「アカヤシオスマイル隊」

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